自由に楽に息を吸う

きょうだい児で福祉職女子。思うことを自由につらつらと。

わたしにとっての家

わたしは、この家から出ていきます。

家族の誰にも喜ばれない結婚であっても、わたしはわたしの人生を生きたい。

当たり前のように我慢をして、それをひた隠しにしなければいけない家にいるのはもう限界だと思っています。

 

県外に嫁いだら、わたしはよっぽどでない限り帰らないつもりです。

そのよっぽどがどの程度になるかは分かりません。

もし家族から助けてと、帰ってきてと言われたら、わたしは無視できるのだろうか。

正直、不安です。

家族のために支援者でいないといけないと ずっと思ってきた、それにすら気づかず当たり前のように自分を犠牲にしてきたので、染み付いているんじゃないかと思うんです。

罪悪感や責任を感じて押しつぶされてしまうんじゃないかと。

 

今からその練習をしているのです。

頼まれなければ家のこと(姉や父に関すること)はしない。

休みの日には、家にいないようにする。

家族だけで賄おうとせず、外部と繋がるよう促す。

 

もともとわたしの居場所ではなかった家が、さらに遠のいています。

すでに諦めているようなもの。

でも、これからわたしはわたしの家族を持つのだから、それでいいように思えます。

そこを居場所にして、わたしの安らぐ場所になるように整えていきます。

 

家を出るまでの辛抱です。

父と弟のこと

父の日でしたね。

 

わたしの父親は同級生の父親たちに比べれば高齢で(母との年の差が10歳以上)、わたしが幼い頃から持病の治療をしながら働いていました。

わたしが高校生の時に継続した医療が必要な状態になり、今もそうです。

わたしが社会人になり少しした頃、転倒骨折しお決まりの大腿骨頸部骨折を経験。

その少し前から、入院すると不穏になるようになっていました。

手術とリハビリで2か月程度の入院でしたが、夜中に電話がかかってきたりと家族としては辛かったです。

 

今も要介護状態です。遠監視と一部介助という感じ。

認知症の面では、見当識障害軽度、短期記憶障害軽度という感じです。

あるあるですが、認知症の病識はなく、自身が高齢であり年相応の老化があることや世間の同年代の状況を理解することは難しい状況です。

 

姉との折り合いは悪く、不登校から始まった姉の心身の不調を受け入れられない言葉掛けがあったことがきっかけで、姉は父を完全拒否。敵かのようにみています。それはいまも同じです。毛嫌いしています。

 

そのため、同じ空間で過ごすことに姉が耐えられなくなり、いつの間にか実家に隣接する父方祖母の家(既に他界)に父のみ生活することに。

おかしいですよね。そんな生活が何年も続いていますしその延長で父は今も家に入れないのです。姉が建てたわけじゃない家。維持費も何もかも一切の負担をしていない家。

それを占拠するのは姉です。

異様だとは分かっています。

 

父が要介護になり、同じ家で生活をしないというのはわたしたち家族にとっても色々と支障のあるものになってきました。

夜は寝泊まりしにわたしか弟が。

日中は母か弟が。

姉だけがずっと家を占拠する。

母も弟も疲弊しています。

わたしも平日めいっぱい仕事して、週末の夜がそれに奪われるのは正直辛いです。

 

わたしの個人的な主観でいえば、姉を生かすための責任を背負い、それぞれの生活を犠牲にしてきた父と母は可哀想です。

 

このまま老いていくのかと思うと苦しくてならない。

かといってわたしも心身に不調をきたし、この暮らしを続けていくのは限界だと知る。

弟の気持ちを聞いたことは無い。

けど、弟はわたしより早くに不調をきたし高校から不登校、友人や社会生活はなんとかなるものの社会に出て独立し働くのは難しそうな感じ。

一番の被害者は弟なのかもしれない。

けど弟は家のことをやる代わりにお給金を得ている。自営業の手伝いという形だ。

わたしはそれはしていない。

 

生粋のきょうだい児である弟を置いてわたしは家を出るのです。

それを思うととても苦しい。

 

でも、わたしはわたしの人生を生きたいのです。

何より申し訳ないのは弟に対してだけど、わたしはわたしの道をいきたい。

家に、姉に潰されてひとり生きて身動き取れず死んでいくことはしたくない。

 

自殺されたり失踪されるよりはましだろう。

そう思ってわたしは実家を出ていきます。

渡瀬悠宇さん

先日、漫画家の渡瀬悠宇さんが、ブログにこのようなことを綴っておられました。

 

うまく言えぬが、きょうだい児。|https://ameblo.jp/wataseyuu/entry-12377877028.html

 

わたし、「ふしぎ遊戯」がとても好きで、連載されていた当初は夢中になって読んでいました。

去年くらいに、また通して読んで。コミックレンタルで見かけて、次は外伝にも手を出したいなと思っていたところでした。

 

境遇や環境は違えど、同じ「きょうだい児」だったんですね。

ブログに綴られている言葉に共感しきりでした。

カウンセリングをして自分の内面と向き合っているときが一番揺さぶられるのだと。

わたしも精神科の主治医との対話を通して自分がきょうだい児としてずっと苦しんできたことに気付いたとき、ものすごく不安定になりました。

自分がこれまで当たり前だ、しょうがないことだと理解してやってきたつもりのことが全て自分の内面に溜まっていたこと。

姉が嫌いなのではない、母に同じように愛されたかったのだと気付いたこと。

内面をえぐられるような気持ちでした。

真実と向き合うのはこんなにも苦しいことなんだと思いました。

 

その真実に蓋をして、これまで平気なふりをして生きてきた自分に、なんて言葉をかけていいかわかりませんでした。

今も分からない。

でも、先生が「えらかったねえ、辛かっただろうに。よーし、よーし。」と言ってくれたとき、

本当のわたしはそのときに初めて見つけてもらえたんだと思いました。

わたしも見つけられずにいた本当のわたしを見つけてくれた。

嬉しかったです。

 

渡瀬さんは、整理できないまま、ぶつけることができないまま、お母様を亡くされたようでした。

わたしはどうなるだろう。

ぶつけることなく、実家を離れて、地元を離れるつもりだけど、

いつかぶつけなかったことを後悔する日がくるのだろうか。

 

 今はまだ、分かりません。

 

ただただ、同じような思いをされてきた渡瀬さんがいること、

世の中にたくさんいるだろうきょうだい児の皆さんが、一人じゃないと思わせてくれること。

家の中ではひとりぼっちでも、家だけが全てじゃないと外に目を向けさせてくれることを、感謝しています。

空耳に苦しむ

夜、部屋の布団に入っている時なんかに、風の音とかテレビドラマの背景音とか、どこかの猫の鳴き声とかに、ドキッとしてヒヤッとします。

姉が不穏のときの泣いたり叫んだりしている声に聞こえてしまうんです。

お風呂に入っていてもそう。

シャワーを止めてお風呂場のドアを開けて耳を済ませずにいられません。

 

条件反射です。

習慣なのです。

悲しいかな、空耳だったとしても反応している自分に気づいた途端気分は最悪になります。

一度過敏になると、なかなか抜け出せません。

 

なので、旅行なんかで外に泊まるときはすごくのびのびと過ごせます。

姉の声は聞こえないから。

物音がしても姉はそこにはいないから。

とても楽です。

 

そんな日々が来ることを願って生きてきました。

わたしが家を出ることイコールほかの家族の負担が増すことなのは理解しています。

だからこそ、それは結婚するときだと、それなら送り出してもらえるだろうと思って、この歳まで家を出ずに来ました。

なのに、結婚するからと言っても喜ばれなかった。

 

絶望しました。

30も過ぎた娘が嫁ぐというのに、喜ばれないのです。

 

未だにおめでとうと言われていません。

きっとわたしは一生これを引きずるでしょう。

死にたくなるような出来事でした。

 

子は、定位家族のために生きなければならないのでしょうか。

生殖家族をもつより先に、定位家族を守るためにつぶれなければいけないのでしょうか。

きょうだいのケア、親のフォロー、親の介護。

それに尽くしているうちに、自分の人生の選択肢が狭まっていく。

そして絶えるのでしょうか。

 

わたしは逃げることを決意しました。

わたしはわたしの人生を生きていきたいのです。

これまでのお仕事

福祉職女子と書いていますので、簡単にこれまでの職歴などなど。

 

高校で介護福祉を学ぶ学科へ。

卒業で介護福祉士受験資格が得られるというところ。

当時は今のような二次試験(実技)免除はありませんでしたので、一次も二次も受け、資格取得しました。

 

その後福祉系大学へ進学。

運良くストレートで社会福祉士国試合格。

(はしょりすぎ)

 

介護系に進みたかったので、住宅型、介護付き有料老人ホーム+デイサービスというところに就職。

デイで介護兼相談員を主に、住宅型有料の相談員とたまにピンチヒッター介護、みたいな感じで働きました。

 

そこから認知症ケアを主に学びたくて、地域密着型の認知症デイへ転職。

小規模ゆえ介護兼相談員という名の、何でも対応職員のような仕事。笑

でも医療法人の介護事業所だったので、医療や地域との連携にも関わることができて、楽しかったです。

 

それから、地域には中等度以上の認知症高齢者があちこちで独居されているということも知りました…

そのお宅へお迎えに伺うのはけっこうスリリングで、毎回度肝を抜かれるような状況でした、ある意味面白かったです。

熱中症の危険性の高い時期、いかにクーラーを切られないようにするか、試行錯誤でした。

帰宅時にスイッチを入れても切られる上リモコンが行方不明になる、電話して確認するもその場の返事で済まされる(聞き方を「もしかして今背中濡れていませんか?」に変えたりあの手この手で探る)、リモコンがないので本体操作で電源を入れるもコンセントを抜かれる、コンセントにテープなんかでバリケードをするも見事に剥がされる…

熱気のするご自宅でなぜか長ズボン3枚重ねばき…とかざらで、ほんとうに面白かったです。笑

 

その事業所に勤めているときにケアマネ取得。

でも社会経験も浅く独身なわたしが実務につくにはまだ早いかと、別の相談系を探しているところ、大学での障害学生支援担当者の枠が空くことを知り、有期でしたが応募して、今に至ります。

 

介護保険以外の障害を持つ人の支援に携わるのは初めてで、知らないことだらけでした。

年齢も障害の種類や程度も幅広く、それぞれで抱える問題は多岐にわたるんだなあと実感する日々です。

まだまだ勉強中ですが、合理的配慮のことなど、学んだことの多くは自身にも役立つと感じています。

いい経験をさせてもらえていますし、視野が広がったな~。今まで特定のものしか見えていなかったのだと気付かされました。

 

結婚引越しを機に退職予定なので、次はどんな仕事をしようか、本腰入れて考えなくちゃと思うところです。

家が好き、家族が好きという人がうらやましい。

 

わたしにとって家は、見たくないものが見える場所、誰かのケアのためにいなければならない場所だから。

 

週末は、顕著。

せっかくの休みなのになぜこんな思いをしなければならないのだろうと憂鬱になる。

 

平日に有給休暇を取ったのに、仕事の振りして家を出て、外で過ごしたこともある。

メンタルが不安定なときは、仕事帰りに家に帰りたくなくて、わたしはどこへ行けばいいんだろう、わたしの居場所はどこなんだろうと泣きながら車を運転した。

 

それでもここにいるかぎりは、帰らなくちゃいけないし、何ともないふりをして過ごすしかないんです。

 

早く、わたしはわたしの家を持ちたい。

早くこの家を出ていきたいです。

ついてまとう

未だに、友人に言われるんです。

一番上だと思ってたって。

そりゃそうですよね、姉がいるなんて話しませんでしたから。

兄弟いるの?という質問が、いつも怖いのです。

何してるの、いくつ違いなの?仕事は?

深くつっこまれませんようにと祈りながら、最低限だけ答えてやり過ごしています。

話したくないから。

 

仲が良ければ、違ったかもしれない。

でも、ただ同じ家にいるだけの人だもの。

助けられたことなんてないし、無理を言って親を苦しませる姿ばかり見てきました。

「絶対にこの日に母と出かけたい」と姉が言うからと、わたしに一日仕事を休んで父の世話をしてくれないかと母が困った顔で言いにくるのです。

断ればきっと、私なんか死ねばいいんだと騒ぎ、母が苦しむ。こちらにとっては母を人質に脅されているようなものです。

 

誰かが自分のために動いてくれたなら、ありがとう、と伝えるべきだと思います。

でも姉は、母にさえ言わない。

わたしになど尚更ない。

仲良くいられるなんてありえない状況だと思いませんか。

 

表面上の、当たり障りない会話しかしない。

リビングのど真ん中に布団を敷き、自分のものを積み上げ、食事以外は常にそこに陣取っている姉を見ていたくないので、わたしも自然に自分の部屋に閉じこもるようになった。

見ていたくないのです。

 

父や母には、育ててもらい養ってもらった恩があります。

姉にはありません。

親亡き後に面倒を見ようなんて思えない。

そう仕向けたのはあなたでしょう。

 

わたしはわたしの人生を生きたいのです。