自由に楽に息を吸う

きょうだい児で福祉職女子。思うことを自由につらつらと。

きっかけは。

わたしがパニック障害のことを家族にだけは絶対に言わない理由。

姉がいまのようになる最初の始まりが、パニック障害だったから。

 

いや、始まりは不登校からだったかな。

当時、わたしは親から詳しく聞かされていなかったし姉とそのことを話すなんて状況じゃなかったから、詳細は分かりません。

自分が正しいと思うことを曲げるのが嫌いだった姉は(母は、姉は正義感が強いから周りと合わないところがあって~とか言っていたような気がします)、中学でいじめを受けて、不登校に。

どちらが先かは分かりませんがそのあたりでパニック障害を発症して、不安定になり引きこもりになり。

そんな経緯だったような気がします。

 

わたし自身、そのころのことはあまり覚えていません。

 

姉のことを誰かに聞かれても流す、ごまかす。その受け答えがわたしの中で定型句になっていて、実際どうなのかは理解していなかったと思います。

母にそれを尋ねることもできませんでした。

 

そんな始まりだったから、わたしが2年ほど前にパニック障害を発症したとき、絶対家族には言えないと思いました。

 

親に心配をかけてはいけないと生きてきた自分を崩してはいけないという思いと、わたしは姉のようにはならない、いち社会人として生きながら治療をするという思いからでした。

絶対言ってはなるものかと。

 

初診時から、わたしの意志は固かったです。

主治医には家族のサポートは得られた方がいいよ、とか、仕事を少し休んだ方がいいと思うよ、とか、提案をもらいました。

でも、仕事には行きたい、家族には心配をかけたくない、とわたしは言いました。

仕事を休んだとして、家でゆっくり休まるわけがない。

どうして寝込んでいるの?と聞かれても答えられないし、そのころにはすでに父親の介護が始まっていたので家でごろごろしていて介護の手に加わらないなんてありえなかった。

思えば、すでにわたしの居場所はそこにはなかったんですね。

 

だから発症当初も仕事は一日も休まなかったし、家に帰っても普通の顔をして過ごしていたし、隠れて服薬していました。

頓服薬が怖くて不安なのに飲めなくて、それを怖いと泣けたのは薬局の薬剤師さんの前でした。

泣きやまないわたしを気遣って、主治医へつなげて受診させてくれた薬剤師さん、今でも感謝しています。

助けてと言えなかったんです。

ずっとそうでした。

辛いときは、風呂場でシャワーに入りながらひとりで泣いていました。

 

 

こんな状況を気付け、とは言えない。

ただ一言、あなたは大丈夫?と声をかけてほしかったのかもしれない。

あのときからずっと。

 

大丈夫だと思われ続けてきたわたしは結婚すると言っても喜ばれず困ったと言われ、

姉は未だに家を占拠している。

 

誰を憎むわけでもないから、財産なんてひとつもいらないから、せめてわたしはこの家から出てわたしの居場所を探したい。