自由に楽に息を吸う

きょうだい児で福祉職女子。思うことを自由につらつらと。

転機

わたしにとっての転機は、2年前のパニック障害発症と、主治医との出会いだったと思います。

それまでは姉のことも父親の介護のことも誰にも言えず、一番負担を背負っている母親にももちろん苦しいなんて言えず、ひたすら悶々としながら耐えていました。

 

家族なんだから介護を、世話をしなくてはと、

わたしは福祉の知識や技術を学んだのだからなおさら、ここで活かさなくてはどうするんだと、母親のフォローをしなくてはと、

自分で自分を苦しめていたんだと思います。

 

父の入院時には、毎日病院へ行く母を姉が無理に引き留めて大騒ぎしたこともありました。病院に行くならわたしを殺してから行け、だなんて。(姉は母と出かけたいのに、母が父の病院へ行ってきてからと答えたからだそう。要求が通らないと、すぐこうなる。)

殺さないなら自分で死ぬ、と外に出て行った姉の迎えを頼まれ、母と一緒になんとか車に押し込みました。

そんなときも、わたしは職場(当時は介護事業所にいました)で不穏の利用者さんの対応をするときのように、変に落ち着いた顔をしていました。

母と一緒に困ったり、わたしが戸惑ってはいけないと思っていました。

 

 

気づかない間にコップの中は水でいっぱいになっていて、最後の一滴で許容量を越えてわっとあふれ出してしまったんだろうね。

初めて精神科を受診したとき、先生はそう言っていました。

初めて発作を起こした時期、仕事の忙しさとか親の入院とかいろいろあったけど、これ!という大きな決め手があったわけではありませんでした。

家のことはすでにわたしの中では常態化していたので、上記のようなことがあってその時はくたくたに疲れても、しょうがないことだと思っていました。

 

なので初診時、わたしの生い立ちやこれまでの生活歴を先生に尋ねられたときも、姉は引きこもりです、としか話しませんでした。

先生は丁寧に丁寧に、わたしがそのときに抱えていた症状に対する不安や、これからのことを一つずつ一緒に考えてくれました。

何かあればすぐに病院に連絡してね、と言ってくれました。

 

不安が強いときにと処方された頓服の安定剤を飲むのが怖くて我慢してしまったときも、よし!ほんじゃ今飲んでいいよ、隣の部屋でそのまましばらく休んでいっていいからね、様子みてるから。と、安心させてくれました。

どうでもいいような話もたくさんしました。そういうところから、少しずつ信頼関係を作っていってくれたんだと思います。

 

通院して1年経って症状も落ち着き、そろそろ減薬を始めようというころ、改めてそのときの生活状況を詳しく聞きます、となったときに初めて、家で日々起きていることを話すことができました。

大変だったね、偉かったね、よしよし。と、きょうだい児として過ごしてきた子どものころのわたしのことを認めてくれました。

家じゃ休まらないこと、それは心にとって大きな負担になっていることもそのとき気づくことができました。だからこそわたしが結婚で他県へ移ることを、先生は全面的に支持してくれています。

 

あなたが家にいると思ったら、みんなあなたに頼ってしまう。

こうやって時期を決めて出ていくと伝えたら、あとはあなたが揺るがずにそれを実行に移すことだよ。

時期を伸ばしても問題はきっと解決しない。あなたが家を出ていくことが、家族にとっても一つのきっかけになるかもしれないからね。

 

わたしは家族を支援しなくちゃと思っていたけど、先生はわたし自身を支援してくれている。

そう思えて、わたしはわたしを楽にすること、幸せにすることに目を向けることができるようになりました。

先生と出会えたおかげだと思っています。

 

今も、月に一度の通院日は楽しみです。