自由に楽に息を吸う

きょうだい児で福祉職女子。思うことを自由につらつらと。

今思っていること

この歳になって思うのは、どこかで違う選択をしていたら、今みたいな自己否定まみれの自分にならないですんだのかなっていうことです。
確かに改めて自分のこれまで過ごした環境を振り返ってみると、ちゃんと親とぶつかることもなく、苦しいときも息をひそめて耐えて、どうにかこれ以上親を悩ませてはいけない、わたしは手のかからない子どもでいなくてはいけないと、必死になったがためにその自覚なく、自分自身へなかなかベクトルが向かない、そんな人生だったと思います。
大人になって社会に出て、人に頼らないということが精神的な自立だと勘違いしながらやってきました。

どうしたって他人に頼らなくては生きていけないのにね。
いろいろな感情をひとりで処理するのが当たり前だったのに、それがいつの間にか限界を迎えていて。
何の気なしに爆発したものだから、そこから戸惑ったりやり過ごそうとしたり気がついたり自分に向き合ったり、けっこう迷走したような。

巡り巡ってたどり着いたのは、根本的な自己肯定感が育たなかった自分と、それによるいろんな弊害。

自分を見つめることの必要性と、向き合う時間と、その練習。

家族ではないけれど、辛いときに頼ることができる場所も少し見つけた。

無意識の中にある自分の本音を、内面をひっぺがして手探りで見つけようとする作業はとても辛かったけど。

 

 

 

もし、あそこで息をひそめることをせず、積極的に介入していっていれば。

介入なんて当時のわたしには到底できないことだったにしても、家族の一員としてぶつかっていれば。

今、何か違っていたのかなあと思います。

 

あれ、結局自分がもっとうまく立ち回れていれば、という話しになってしまう。

 

そうじゃなくて、わたしも見て、わたしも悩んでいる、部活ではぶられている、進路に悩んでいる、親に相談したいこと、一緒に行きたいところがたくさんある、わたしも見てよ、とぶつかっていれば。

 

そこで一度親は爆発したかもしれないけど、それによって第三者の関わりや介入を呼べたのではないか。

今のような、家族だけで何とかしようとするような、そんな状態にはならなかったのではないか。

 

結局自分が当時どうしてほしかった、そうしてくれれば今は楽だったのに、とかではなく、

どうしたって自分以外の家族に目がいってしまうんだな。

情けないです。

 

 

 

そのすり合わせを家族やきょうだいと今更しようなんて思っていないけど、

せめてわたしはわたしの居場所を見つけて、そこをわたしの家にして、心安らぐ場所にしたい。

その邪魔はもうしないでほしい。

ただただそれだけです。