合理的配慮とは
今、社会は合理的配慮のしくみを整えようと動いています。
障害(わたしは表記にこだわりがないので、「障がい」ではなく法令等で記される「障害」を使用しています)を持っている人が、それにより不利益をこうむることなく過ごすための手立てです。
例えば、お店の入り口に段差がある。段差があるため、車いすを使っている人が入店できない。これは障害による不利益です。
そこにスロープを付けてほしいと依頼をする。お店が可能なら、工事をしてスロープを設置する。
でも、工事に発生する費用がそのお店にとって「過重な負担」となるなら、お店はその依頼を断ることができる。
スロープを付ける目的は「車いすでも入店できるようにすること」。
であれば、スロープ設置以外の代替案を提示して、その目的を達成できるようにすることも可能。
例えば、取り外し式のスロープ(折りたたみできるものもあります)を購入し、車いすユーザーが来店したときにそれを置く。
もしくは、来店時に、人の手で段差を超えるための手伝いをする。
代替手段が用意でき、目的が達成できるなら、必ずしもスロープを設置しなくてはならないわけではない。
これが「合理的配慮」です。
過重な負担でないか、その場合代替案を探り、合意に近づけていくためのプロセスを「建設的対話」といいます。
一方的な配慮の要求ではなく、代替案が叶えられるか、その場合障害をもつ人側も自分のできること(ex:両側から支えてもらえれば歩ける)を提示したり、予め準備できることがないか(ex:来店予約時に相談しておく)を一緒に検討していくのです。
お互いが協力しあうことで、目的を達成するための手段を探っていく仕組みです。
望んで障害をもつ人はいません。今の社会にあるものの多くは、障害のない人向けに作られたものです。そのため、障害をもつ人を支える制度がいろいろな形で整備される必要があります。
でも、障害があることで誰かに迷惑をかけたら、謝らなくちゃいけないと思うのです。
誰かが自分のために動いてくれたなら、ありがとうと言わなくちゃいけないと思うのです。
それは、障害があろうとなかろうと、当たり前のことです。
自分を助けてくれる人がそばにいる環境に慣れていると、それが上手にできなくなることがあります。
わたしの姉もそうです。
周りの家族がいかに自分を支えているか。
働かなくてすむのは、食事を作らなくてすむのは、なぜか。
出かけたいと言った日に出かけられるのは、なぜか。
不安があるからといって、騒いで、相手を否定して傷つけていいわけはありません。
障害をもつ人だけでなく誰もが、生きるために他人の助けを必要とする場面があると思います。
そんなとき、ごめんなさいとありがとうが言える人間でいたいと思います。
いくら家のために自分を犠牲にしても、誰もほめてくれないしありがとうと言ってくれない。そんな家にいてもわたしが壊れていくだけ。
わたしを助ける人は私しかいない。
なのでわたしは家を出て行きます。