自由に楽に息を吸う

きょうだい児で福祉職女子。思うことを自由につらつらと。

家とは

姉が入院していることで、家にいる時間は以前に比べて少しだけ穏やかです。

リビングのど真ん中に布団を敷き、その周りに私物を積み上げて陣取っていた姉がいないだけでも、空気の通りがよい気がします。

 

その代わり、要介護の父が体調を崩しがちです。

もうそれなりの年齢であること、基礎疾患もある中のこの状態なので、一般的にみれば悪くはないのかもしれません。

でも日常生活全般に介助が必要です。認知機能の低下もあり、コミュニケーションも徐々にうまくとれなくなってきています。

ちょっと体調を崩してから、デイサービスへの通所を拒否するようになりました。

なので、通院以外は家にいます。

見守りと介助が必要です。

平日は母と弟が交代で張り付いているので、わたしは週末の夜が当番です。

 

飲み会にもなかなか行けず、

一週間の仕事を終えてひと息つくこともできず、夜は父の対応。

寝てくれるならいいのですが、夜中に覚醒して起き上がろうとしたりすることも多いのでわたしは眠れません。

細切れに、1時間とかうとうとできればいい方です。

なので、土日の日中はふらふらしながら予定をこなします。

その疲労が、パニックの発作を呼ぶのでしょう。土日の外出先で気分が悪くなることが多いです。

でも、しょうがないのです。

これが在宅介護です。

 

父が夜眠らないと、いらいらします。

仕事の介護なら我慢できるところなのですが、身内に同じ態度はとれません。

口調が強くなったり、怒鳴ったりしてしまいます。

給料がもらえるわけでもない、自分の睡眠時間を削っているのだからしょうがないとも思います。

でも、今こんな風にいらいらしてしまう自分がいることで、あんなに好きだった介護の仕事に対する自信が持てなくなりました。

こんなにいらいらしてしまう自分が介護の仕事をしようなんて、身の程を知れ、と

自分で自分を責めてしまいます。

自信をなくしました。

 

それから、将来したいと思っていた子育ても、同じようにいらいらしてしまうのではないかと、不安でしかありません。

介護がこんなに楽しくないのだから、子育てが楽しめる気がしないのです。

 

これが在宅介護です。

 

きょうだいへのケアもそうですが、在宅介護も、身内でなんとかしようとすると、こんなふうに削り取られていくんです。

育ててもらったのだから、家におかせてもらっているのだから、尽くさなくてはと思わされてしまいます。

でもそれで自分がつぶれたら、未来は狭まるばかりです。

上の世代に食いつぶされる、それが今の社会制度と慣習です。

家で面倒をみろ。家族がなんとかしろ。

病気になる人も障害をもつ人も、望んでそうなるわけではありません。

家族にはそれを責められないのです。

 

だからわたしは家を捨てたい。

一度家から距離を置いて、自分自身の環境を作りたい。

もちろんがらりと環境を変えることで、自分自身の精神状態が揺らぐことも、パニック障害が悪化するだろうことも予想できます。

それでもわたしは自分の人生を生きるために、家から離れたいです。

ラブホの上野さんの相談室より


【お悩み相談第24回】知的障害の妹と統合失調の母 | ラブホの上野さんの相談室

 

 

 少し前の、ラブホの上野さんの記事です。

 この相談者さんもきょうだい児。親御さんは精神疾患を患っている。

29歳という年齢、きっといろいろ苦悩されていることと存じます。

家の中で「まとも」な人間が自分しかいなかったら、そしてそれが当たり前である状況で生きてきたら、自分を幸せにする選択や判断ができなくなります。

家族を尊重する、イコール自分を犠牲にする。

在宅介護でも同じ図式になります。

 

家族が支援者になってはいけないと思います。

家族としての顔を持てなくなります。

家が家じゃ無くなります。

居場所を求めたいのに、それをすると家族を捨てることになります。

部外者の目が、それを責めます。

社会がそれを責めます。

家族でできるだけ賄うのが当たり前だろ、と。

日本の社会保障制度はそれが大本になっているので、すごく生きづらくなります。

そのうち、自身も心や体を病みます。

はい、できあがり。

 

 

この記事でラブホの上野さんが最後に書いている、「支えられる側の努力」について。

まさにその通りだと思いました。

支えられる側がその自覚をもって、協力なり努力なりをしてくれないと、支えられるわけがありません。

その「協力なり努力なり」が感じられなければ、支えようなんて思えるはずもありません。

たとえそれが家族であっても。

配偶者であっても、親であっても。

 

家が居心地のよい場所である人にとっては、分からない話かもしれませんね。

これまでのお仕事

福祉職女子と書いていますので、簡単にこれまでの職歴などなど。

 

高校で介護福祉を学ぶ学科へ。

卒業で介護福祉士受験資格が得られるというところ。

当時は今のような二次試験(実技)免除はありませんでしたので、一次も二次も受け、資格取得しました。

 

その後福祉系大学へ進学。

運良くストレートで社会福祉士国試合格。

(はしょりすぎ)

 

介護系に進みたかったので、住宅型、介護付き有料老人ホーム+デイサービスというところに就職。

デイで介護兼相談員を主に、住宅型有料の相談員とたまにピンチヒッター介護、みたいな感じで働きました。

 

そこから認知症ケアを主に学びたくて、地域密着型の認知症デイへ転職。

小規模ゆえ介護兼相談員という名の、何でも対応職員のような仕事。笑

でも医療法人の介護事業所だったので、医療や地域との連携にも関わることができて、楽しかったです。

 

それから、地域には中等度以上の認知症高齢者があちこちで独居されているということも知りました…

そのお宅へお迎えに伺うのはけっこうスリリングで、毎回度肝を抜かれるような状況でした、ある意味面白かったです。

熱中症の危険性の高い時期、いかにクーラーを切られないようにするか、試行錯誤でした。

帰宅時にスイッチを入れても切られる上リモコンが行方不明になる、電話して確認するもその場の返事で済まされる(聞き方を「もしかして今背中濡れていませんか?」に変えたりあの手この手で探る)、リモコンがないので本体操作で電源を入れるもコンセントを抜かれる、コンセントにテープなんかでバリケードをするも見事に剥がされる…

熱気のするご自宅でなぜか長ズボン3枚重ねばき…とかざらで、ほんとうに面白かったです。笑

 

その事業所に勤めているときにケアマネ取得。

でも社会経験も浅く独身なわたしが実務につくにはまだ早いかと、別の相談系を探しているところ、大学での障害学生支援担当者の枠が空くことを知り、有期でしたが応募して、今に至ります。

 

介護保険以外の障害を持つ人の支援に携わるのは初めてで、知らないことだらけでした。

年齢も障害の種類や程度も幅広く、それぞれで抱える問題は多岐にわたるんだなあと実感する日々です。

まだまだ勉強中ですが、合理的配慮のことなど、学んだことの多くは自身にも役立つと感じています。

いい経験をさせてもらえていますし、視野が広がったな~。今まで特定のものしか見えていなかったのだと気付かされました。

 

結婚引越しを機に退職予定なので、次はどんな仕事をしようか、本腰入れて考えなくちゃと思うところです。

合理的配慮とは

今、社会は合理的配慮のしくみを整えようと動いています。

 

障害(わたしは表記にこだわりがないので、「障がい」ではなく法令等で記される「障害」を使用しています)を持っている人が、それにより不利益をこうむることなく過ごすための手立てです。

 

例えば、お店の入り口に段差がある。段差があるため、車いすを使っている人が入店できない。これは障害による不利益です。

 

そこにスロープを付けてほしいと依頼をする。お店が可能なら、工事をしてスロープを設置する。

 

でも、工事に発生する費用がそのお店にとって「過重な負担」となるなら、お店はその依頼を断ることができる。

 

スロープを付ける目的は「車いすでも入店できるようにすること」。

であれば、スロープ設置以外の代替案を提示して、その目的を達成できるようにすることも可能。

 

例えば、取り外し式のスロープ(折りたたみできるものもあります)を購入し、車いすユーザーが来店したときにそれを置く。

もしくは、来店時に、人の手で段差を超えるための手伝いをする。

 

代替手段が用意でき、目的が達成できるなら、必ずしもスロープを設置しなくてはならないわけではない。

 

これが「合理的配慮」です。

 

過重な負担でないか、その場合代替案を探り、合意に近づけていくためのプロセスを「建設的対話」といいます。

 

一方的な配慮の要求ではなく、代替案が叶えられるか、その場合障害をもつ人側も自分のできること(ex:両側から支えてもらえれば歩ける)を提示したり、予め準備できることがないか(ex:来店予約時に相談しておく)を一緒に検討していくのです。

お互いが協力しあうことで、目的を達成するための手段を探っていく仕組みです。

 

望んで障害をもつ人はいません。今の社会にあるものの多くは、障害のない人向けに作られたものです。そのため、障害をもつ人を支える制度がいろいろな形で整備される必要があります。

 

でも、障害があることで誰かに迷惑をかけたら、謝らなくちゃいけないと思うのです。

誰かが自分のために動いてくれたなら、ありがとうと言わなくちゃいけないと思うのです。

 

それは、障害があろうとなかろうと、当たり前のことです。

自分を助けてくれる人がそばにいる環境に慣れていると、それが上手にできなくなることがあります。

わたしの姉もそうです。

周りの家族がいかに自分を支えているか。

働かなくてすむのは、食事を作らなくてすむのは、なぜか。

出かけたいと言った日に出かけられるのは、なぜか。

不安があるからといって、騒いで、相手を否定して傷つけていいわけはありません。

 

障害をもつ人だけでなく誰もが、生きるために他人の助けを必要とする場面があると思います。

そんなとき、ごめんなさいとありがとうが言える人間でいたいと思います。

 

いくら家のために自分を犠牲にしても、誰もほめてくれないしありがとうと言ってくれない。そんな家にいてもわたしが壊れていくだけ。

わたしを助ける人は私しかいない。

なのでわたしは家を出て行きます。