これからの生活のことを考える
転居は11月初旬ごろになりそうです。
今は、それに向けていろいろと調整をしているところです。
精神科の転院先も決めています。
今の主治医が決めてくれました。
先生はわたしの嫁ぎ先の県のご出身で、同級生の女医さんが近くにクリニックを開業されているそうです。そこにしっかり引き継ぐから安心してね、と前々から話してくれていました。
わたしは婦人科にも通院しているのですが、その転院先の相談を精神科の主治医にすると、その女医さんへ婦人科のことも聞いてくれました。
とてもありがたいと思っています。
わたしは誰よりも、先生と離れるのが寂しいです。
転居後は、きっと大きく調子を崩すでしょう。
そのつもりで身構えています。そうでないとこの落差を受け止められないと思うからです。
まずはそこから体調を立て直すことが目標。
落ち着いたら、身の周りを整えて、その町で暮らしやすいようにしていく。
彼のご両親には、孫をと期待されています。
今、パニック障害の治療で飲んでいるお薬や、これから体調を崩したときに処方されるだろうお薬、それらを卒業することがひとつの目途だと考えているので、すぐに子どもを、というは無理です。
それもあって、体調を整えることが一番だと考えています。
お薬がいらなくなる目途はたつのだろうか。
それが難しければ、どんな風に立ち向かっていけばいいのか。
年齢との兼ね合いもあります。
またきっと、悩むと思います。
でも、自分の人生のために悩めるなんて幸せだと思います。
頼れる人をたくさんつくりたいと思います。
自立は、依存先を増やすこと。
まずは依存先づくりとセルフコーディネートから。
不安はとても大きいですが、少しずつ次の生活のことを考えていきたいと思います。
家とは
姉が入院していることで、家にいる時間は以前に比べて少しだけ穏やかです。
リビングのど真ん中に布団を敷き、その周りに私物を積み上げて陣取っていた姉がいないだけでも、空気の通りがよい気がします。
その代わり、要介護の父が体調を崩しがちです。
もうそれなりの年齢であること、基礎疾患もある中のこの状態なので、一般的にみれば悪くはないのかもしれません。
でも日常生活全般に介助が必要です。認知機能の低下もあり、コミュニケーションも徐々にうまくとれなくなってきています。
ちょっと体調を崩してから、デイサービスへの通所を拒否するようになりました。
なので、通院以外は家にいます。
見守りと介助が必要です。
平日は母と弟が交代で張り付いているので、わたしは週末の夜が当番です。
飲み会にもなかなか行けず、
一週間の仕事を終えてひと息つくこともできず、夜は父の対応。
寝てくれるならいいのですが、夜中に覚醒して起き上がろうとしたりすることも多いのでわたしは眠れません。
細切れに、1時間とかうとうとできればいい方です。
なので、土日の日中はふらふらしながら予定をこなします。
その疲労が、パニックの発作を呼ぶのでしょう。土日の外出先で気分が悪くなることが多いです。
でも、しょうがないのです。
これが在宅介護です。
父が夜眠らないと、いらいらします。
仕事の介護なら我慢できるところなのですが、身内に同じ態度はとれません。
口調が強くなったり、怒鳴ったりしてしまいます。
給料がもらえるわけでもない、自分の睡眠時間を削っているのだからしょうがないとも思います。
でも、今こんな風にいらいらしてしまう自分がいることで、あんなに好きだった介護の仕事に対する自信が持てなくなりました。
こんなにいらいらしてしまう自分が介護の仕事をしようなんて、身の程を知れ、と
自分で自分を責めてしまいます。
自信をなくしました。
それから、将来したいと思っていた子育ても、同じようにいらいらしてしまうのではないかと、不安でしかありません。
介護がこんなに楽しくないのだから、子育てが楽しめる気がしないのです。
これが在宅介護です。
きょうだいへのケアもそうですが、在宅介護も、身内でなんとかしようとすると、こんなふうに削り取られていくんです。
育ててもらったのだから、家におかせてもらっているのだから、尽くさなくてはと思わされてしまいます。
でもそれで自分がつぶれたら、未来は狭まるばかりです。
上の世代に食いつぶされる、それが今の社会制度と慣習です。
家で面倒をみろ。家族がなんとかしろ。
病気になる人も障害をもつ人も、望んでそうなるわけではありません。
家族にはそれを責められないのです。
だからわたしは家を捨てたい。
一度家から距離を置いて、自分自身の環境を作りたい。
もちろんがらりと環境を変えることで、自分自身の精神状態が揺らぐことも、パニック障害が悪化するだろうことも予想できます。
それでもわたしは自分の人生を生きるために、家から離れたいです。
犠牲になるきょうだい
弟は母へ、将来姉の面倒はみられないと話しているそうです。
そのことを母から聞きました。
弟がそれをはっきり母へ伝えられていることに安心しました。
弟も学生時代から学校を休みがちでした。
外で働くのは、不安なようです。
今は、うちの自営業を弟がやっています。インターネットを利用したものなので、家にいられる仕事です。
父の世話は、母と弟が主にやっています。
弟もきっと、わたしのようにどこかしら調子を崩してはいるのだと思います。
絶対、今の生活をつらく感じていると思います。
家のことを背負って。
ただ、家のことをすることで彼はお金を得られるし、仕事のある状態でいられる。
それがなければ無職になってしまう。だから弟は堪えているのかなと思います。
わたしよりも家に縛られていると思います。
母に弟は、「介護の必要な父もいて、自分は結婚なんてできないと思う」と話したそうです。
わたしはその気持ちが痛いほどわかりました。
家のことをしなくちゃいけないのに、そうしていないと一社会人としての自分を保てないのに、家があることで外にも出られず、婚活なんて考える余裕などないのだと思います。
だって、日中も夜も父の付き添いをしなければならないんだから。
週末の夜だけわたしが代わるので、そこで息抜きをするしかない状況です。
なんて酷いことをしているのだろうと、わたしは自分で自分が情けないです。
代わりたいけどわたしも限界なのです。
母はそんな弟の弁を受けて、「まだ若いんだしそんなことないのにね」とわたしに言いました。
わたしには考えられない言葉でした。
わたしが今もし彼の立場なら、絶対考えられないです。結婚なんて。
わたしはわたしだったから、社会に出て働いて家がメインでなかったから、結婚したいとも思えたけれど、弟の状況でそれができるわけないことは予想がつきます。
なんて酷い姉なんだろうと思っています。
弟を犠牲にして。
弟は、父が介護の手を離れてからでないと自由になれません。
そのうえ姉の存在もあります。
姉のことははっきり放棄したと言えたとしても、わたしが家を出て行ってしまったら、結局弟が対応しなければならない場面が出てくるのではないかと思っています。
母だって老います。
姉が自活できないかぎり、弟はきっと自由にはなれないのです。
血縁ってなんて苦しいものなのだろうと日々思います。
将来が真っ暗です。
わたし一人逃げて、なんて酷い姉だろう。
一抜けて、責任を押し付けて。
どうすればいいんだろう。
家を出るのが迫っている中、苦しくなってばかりです。
入院
姉が入院しました。
このところ調子が不安定で、母へぶつかる頻度が増え、騒ぐ頻度が増え。
わたしも職場に残って仕事をしているとき、母から「姉が暴れているから早く帰ってきて」とヘルプの電話を受けたりもしました。
結果、姉は自分で警察を呼び、病院へ運ばれ、入院となりました。
医者は信用しないくせに、薬は必要だと言う。
薬が変わったことでナイーブになっていた面もあり、調子が悪いから薬が必要、との意思はあったようです。
精神科病院へ向かう救急車へ乗ることは拒まなかったそうです。
その場で医師に入院を勧められ断固拒否。結果、親の同意による医療保護入院となりました。
遅かれ早かれ、だったのかもと思う。
そう思い始めてもう何年経ったのだろうか。とも思います。
通院だけでは、本人の状態を医師に把握してもらうことはできないと思っていました。
本人も通院を避けたがるし、自身の体調や精神面の変化をきちんと伝えられていない上、医師やカウンセラーとの対話による精神療法へ向き合おうとしていないことが分かっていたためです。
今回、本人にとって不本意ながらも、やっと、しっかり医療と向き合う機会になったと思います。
やっと。
ただ、退院するときには家で生活する上で支障となる部分をある程度改善していてもらえないと、同じことの繰り返しになります。
私や弟はそれを危惧しています。
結局同じなんでしょう、と。
そこは本人と医療に任せて、改善されることを願うばかりです。
姉不在の家で、やっとこういう家族間のちゃんとした話し合いができるようになりました。
これまでは姉が聞いたら不穏になるような内容は、決して口にできませんでした。
それが十何年も続いていました。
この機会にちゃんと話さなくては、とも思うし
また同じことを繰り返すなら、結果母親を苦しめるなら言わない方がいいのかとも思うし
わたしにはもう分かりません。
家族を家族と思えていない状態が長すぎたので、ここからどう構築するものなのか、ひとときの平穏をもてあましてしまいそうです。
初めて、家の中でくつろげます。
息が吸えるまではいかないけれど、少しだけ穏やかな気持ちになれました。
本来の家となる日がくるとは思えませんが、少しだけ。
ラブホの上野さんの相談室より
【お悩み相談第24回】知的障害の妹と統合失調の母 | ラブホの上野さんの相談室
少し前の、ラブホの上野さんの記事です。
この相談者さんもきょうだい児。親御さんは精神疾患を患っている。
29歳という年齢、きっといろいろ苦悩されていることと存じます。
家の中で「まとも」な人間が自分しかいなかったら、そしてそれが当たり前である状況で生きてきたら、自分を幸せにする選択や判断ができなくなります。
家族を尊重する、イコール自分を犠牲にする。
在宅介護でも同じ図式になります。
家族が支援者になってはいけないと思います。
家族としての顔を持てなくなります。
家が家じゃ無くなります。
居場所を求めたいのに、それをすると家族を捨てることになります。
部外者の目が、それを責めます。
社会がそれを責めます。
家族でできるだけ賄うのが当たり前だろ、と。
日本の社会保障制度はそれが大本になっているので、すごく生きづらくなります。
そのうち、自身も心や体を病みます。
はい、できあがり。
この記事でラブホの上野さんが最後に書いている、「支えられる側の努力」について。
まさにその通りだと思いました。
支えられる側がその自覚をもって、協力なり努力なりをしてくれないと、支えられるわけがありません。
その「協力なり努力なり」が感じられなければ、支えようなんて思えるはずもありません。
たとえそれが家族であっても。
配偶者であっても、親であっても。
家が居心地のよい場所である人にとっては、分からない話かもしれませんね。
きっかけは。
わたしがパニック障害のことを家族にだけは絶対に言わない理由。
姉がいまのようになる最初の始まりが、パニック障害だったから。
いや、始まりは不登校からだったかな。
当時、わたしは親から詳しく聞かされていなかったし姉とそのことを話すなんて状況じゃなかったから、詳細は分かりません。
自分が正しいと思うことを曲げるのが嫌いだった姉は(母は、姉は正義感が強いから周りと合わないところがあって~とか言っていたような気がします)、中学でいじめを受けて、不登校に。
どちらが先かは分かりませんがそのあたりでパニック障害を発症して、不安定になり引きこもりになり。
そんな経緯だったような気がします。
わたし自身、そのころのことはあまり覚えていません。
姉のことを誰かに聞かれても流す、ごまかす。その受け答えがわたしの中で定型句になっていて、実際どうなのかは理解していなかったと思います。
母にそれを尋ねることもできませんでした。
そんな始まりだったから、わたしが2年ほど前にパニック障害を発症したとき、絶対家族には言えないと思いました。
親に心配をかけてはいけないと生きてきた自分を崩してはいけないという思いと、わたしは姉のようにはならない、いち社会人として生きながら治療をするという思いからでした。
絶対言ってはなるものかと。
初診時から、わたしの意志は固かったです。
主治医には家族のサポートは得られた方がいいよ、とか、仕事を少し休んだ方がいいと思うよ、とか、提案をもらいました。
でも、仕事には行きたい、家族には心配をかけたくない、とわたしは言いました。
仕事を休んだとして、家でゆっくり休まるわけがない。
どうして寝込んでいるの?と聞かれても答えられないし、そのころにはすでに父親の介護が始まっていたので家でごろごろしていて介護の手に加わらないなんてありえなかった。
思えば、すでにわたしの居場所はそこにはなかったんですね。
だから発症当初も仕事は一日も休まなかったし、家に帰っても普通の顔をして過ごしていたし、隠れて服薬していました。
頓服薬が怖くて不安なのに飲めなくて、それを怖いと泣けたのは薬局の薬剤師さんの前でした。
泣きやまないわたしを気遣って、主治医へつなげて受診させてくれた薬剤師さん、今でも感謝しています。
助けてと言えなかったんです。
ずっとそうでした。
辛いときは、風呂場でシャワーに入りながらひとりで泣いていました。
こんな状況を気付け、とは言えない。
ただ一言、あなたは大丈夫?と声をかけてほしかったのかもしれない。
あのときからずっと。
大丈夫だと思われ続けてきたわたしは結婚すると言っても喜ばれず困ったと言われ、
姉は未だに家を占拠している。
誰を憎むわけでもないから、財産なんてひとつもいらないから、せめてわたしはこの家から出てわたしの居場所を探したい。
今思っていること
この歳になって思うのは、どこかで違う選択をしていたら、今みたいな自己否定まみれの自分にならないですんだのかなっていうことです。
確かに改めて自分のこれまで過ごした環境を振り返ってみると、ちゃんと親とぶつかることもなく、苦しいときも息をひそめて耐えて、どうにかこれ以上親を悩ませてはいけない、わたしは手のかからない子どもでいなくてはいけないと、必死になったがためにその自覚なく、自分自身へなかなかベクトルが向かない、そんな人生だったと思います。
大人になって社会に出て、人に頼らないということが精神的な自立だと勘違いしながらやってきました。
どうしたって他人に頼らなくては生きていけないのにね。
いろいろな感情をひとりで処理するのが当たり前だったのに、それがいつの間にか限界を迎えていて。
何の気なしに爆発したものだから、そこから戸惑ったりやり過ごそうとしたり気がついたり自分に向き合ったり、けっこう迷走したような。
巡り巡ってたどり着いたのは、根本的な自己肯定感が育たなかった自分と、それによるいろんな弊害。
自分を見つめることの必要性と、向き合う時間と、その練習。
家族ではないけれど、辛いときに頼ることができる場所も少し見つけた。
無意識の中にある自分の本音を、内面をひっぺがして手探りで見つけようとする作業はとても辛かったけど。
もし、あそこで息をひそめることをせず、積極的に介入していっていれば。
介入なんて当時のわたしには到底できないことだったにしても、家族の一員としてぶつかっていれば。
今、何か違っていたのかなあと思います。
あれ、結局自分がもっとうまく立ち回れていれば、という話しになってしまう。
そうじゃなくて、わたしも見て、わたしも悩んでいる、部活ではぶられている、進路に悩んでいる、親に相談したいこと、一緒に行きたいところがたくさんある、わたしも見てよ、とぶつかっていれば。
そこで一度親は爆発したかもしれないけど、それによって第三者の関わりや介入を呼べたのではないか。
今のような、家族だけで何とかしようとするような、そんな状態にはならなかったのではないか。
結局自分が当時どうしてほしかった、そうしてくれれば今は楽だったのに、とかではなく、
どうしたって自分以外の家族に目がいってしまうんだな。
情けないです。
そのすり合わせを家族やきょうだいと今更しようなんて思っていないけど、
せめてわたしはわたしの居場所を見つけて、そこをわたしの家にして、心安らぐ場所にしたい。
その邪魔はもうしないでほしい。
ただただそれだけです。